Archive.09:パスカル - 理性と家族――恐怖という名の賭けと、忘却の果てにあるもの
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果てしなく続く廃墟の都市、赤錆にまみれた鉄の骸たちが打ち捨てられ、かつての文明の残滓が静かに風化していく世界。創造主たるエイリアンを喪失し、ただ盲目的に「敵を殲滅する」という命令のループに囚われ、果てなき増殖と破壊を繰り返す機械生命体のネットワーク。その巨大で無機質な意思の奔流から自らを切り離し、白旗を振りながら「対話」と「平和」を説いた特異な個体が存在した。その名を「パスカル」という。
本レポートは、物語において最も数奇で、最も凄惨な運命を辿った機械生命体・パスカルに焦点を当てる。彼が森の奥深くに築き上げようとした「家族」という名のユートピア、子供たちに教え込んだ「恐怖」という感情の真意、そしてその果てに待ち受けていた圧倒的な絶望と虚無について、実存主義(ジャン=ポール・サルトル、セーレン・キルケゴール)および虚無主義(フリードリヒ・ニーチェ)の哲学的視座から徹底的に解き明かす。
退廃的で儚いこの世界において、冷酷な鉄の機械が夢見た「理性」とは何だったのか。本稿では、ゲーム内で明示されている「事実」と、断片的なアーカイブ、ウェポンストーリー、関連書籍等の記述から導き出される「考察」を論理的かつ明確に区別し、パスカルという存在が物語全体に投げかけた形而上学的な問いの全貌を復元する。
1. ネットワークからの離脱と「理性のユートピア」の構築
1.1 【事実】平和主義の提唱と共同体の形成
ゲーム内における明白な事実として、パスカルは好戦的な同族たちとは異なり、機械生命体の巨大ネットワークから自らを物理的・精神的に切り離した存在である。彼は同様に戦いを放棄し、平和を望む機械生命体たちを集め、外界から隔絶された辺境に村を形成した。
パスカルはヨルハ部隊の排他主義的なアンドロイド(2Bや9S)に対しても敵意を見せず、白旗を掲げて対話を試みた。彼は知識を愛し、人類の遺した哲学書や歴史書を読み解き、村の機械たちに「家族」という概念を与え、自らは「おじちゃん」として幼い外見や未熟な知能を持つ機械生命体の子供たちを慈しんだ。
1.2 【考察】実存的跳躍と「意味」の模索
このパスカルの行動を実存主義の観点から深く考察すると、これは機械生命体という「下位の意識形態」が成し遂げた、極めて高度で人間的な精神的跳躍であると言える。ジャン=ポール・サルトルは「実存は本質に先立つ」と説いた。人間はまずこの世界に投げ出され(実存)、その後に自らの行動と選択によって自分が何者であるか(本質)を定義していく。
一方で、機械生命体やアンドロイドたちの「本質」は、創造主(エイリアンや人類)によってあらかじめ定められている。機械生命体の初期設定における本質は「敵を破壊すること」であり、その目的を果たすための歯車としてネットワークに組み込まれている。しかし、パスカルはこの決定論的な運命から自発的に離脱した。彼はネットワークという巨大な「神の意志」を拒絶し、自らの「実存」をもって「平和主義者」であり「家族の保護者」であるという新たな本質を自己定義したのである。
物語『NieR: Automata』全体が「意味(Meaning)」の探求を根本的なテーマとしている中で、パスカルは生殖機能も血の繋がりもない機械たちの間に「家族愛」や「平和」といった抽象概念を導入し、コミュニティに「意味」を与えようとした。この行為は、人間の本質が「意味の探求」にあるというヒューマニズムの理想を色濃く反映している。しかし、この美しき理性のユートピアは、弱肉強食と無慈悲な殺戮が支配する現実世界という荒野の上に築かれた、あまりにも脆い砂上の楼閣であった。
2. 哲学的基盤――ブレーズ・パスカルと「恐怖の賭け」
パスカルという名前は、17世紀フランスの哲学者であり数学者、物理学者でもあったブレーズ・パスカル(Blaise Pascal)に由来する。ヨコオタロウ氏の作品において、登場人物に冠された哲学者の名は単なる記号ではなく、そのキャラクターの思想的背景、行動原理、そして彼らが迎える悲劇的な結末を暗示する呪いのようなものである。
2.1 【事実】子供たちへの「恐怖」の教育
パスカルは、村の子供たちが外の世界の危険を理解せず、無謀な行動に出て命を落とすことがないよう、彼らに「恐怖」という感情を意図的に教え込んだ。彼は、恐怖を知ることで子供たちが危険な場所には近づかず、圧倒的な力を持つ敵からは逃げ出し、結果として「生き延びる」ことができるという論理的帰結を信じていた。
また、作中の対話において、パスカルはフリードリヒ・ニーチェの思想、とりわけ「神は死んだ」という有名なテーゼに対して懐疑的、あるいは批判的な態度を示していることが確認できる。
2.2 【考察】歪んだ「パスカルの賭け」と欺瞞
現実のブレーズ・パスカルは、その遺稿集『パンセ(Les Pensées)』において、幸福、信仰、教育、そして死の恐怖について論じた。その中で最も有名な論証が「パスカルの賭け(Pascal’s Wager)」である。これは、「神が存在するかどうかは人間の有限な理性では証明できないが、もし神が存在するならば、神を信じることで永遠の幸福(天国)を得られ、信じなければ無限の罰(地獄)に堕ちる。したがって、確率論的に見れば、神を信じるように振る舞う方が己にとって圧倒的に有利であり、合理的な選択(安全な賭け)である」という主張である。
この「パスカルの賭け」に対する後世の哲学者たちからの痛烈な批判の一つは、その信仰が純粋な神への愛や精神的な献身に基づくものではなく、無限の罰(地獄)に対する「恐怖」と、自己の利益を計算する「打算」に基づいているという点である。恐怖のみを基盤とした哲学は、真の魂の救済をもたらさず、それに従う者たちを精神的な破綻へと導く運命にある。
『NieR: Automata』のパスカルは、まさにこの「恐怖の賭け」を村の子供たちに適用したのである。彼にとっての「地獄」とは「破壊(死)」であり、「天国」とは「安全な生存」であった。彼は子供たちに対し、「危険を恐れるように振る舞えば、破壊を免れる」という論理を植え付けた。
彼がニーチェの「神は死んだ」という言葉に懐疑的であった理由もここにある。ニーチェのニヒリズムは、絶対的な価値観念(神)の喪失を受け入れ、己の力で新たな価値を創造する「超人」の思想へと繋がる。しかし、機械生命体のパスカルは、絶対的な安全の拠り所(神に代わるものとしての「恐怖による自己防衛の絶対性」)を手放すことができなかった。彼は自らのコミュニティを維持するために、何らかの絶対的なルールに依存しようとする精神的な脆弱性を抱えていたのである。
以下の表は、現実のブレーズ・パスカルの哲学と、ゲーム内における機械生命体パスカルの思想の構造的対比を整理したものである。
| 概念の階層 | ブレーズ・パスカルの賭け(現実の哲学) | パスカルの教育(ゲーム内の事実) | ヨコオタロウによる解体(物語の考察) |
|---|---|---|---|
| 回避すべき最大の対象 | 地獄への堕落(永遠の罰) | 無謀な行動による死・破壊(機能停止) | 回避手段であるはずの「恐怖」そのものが、最大の苦痛となる |
| 信仰・依存の対象 | 神の存在への打算的な信仰 | 「恐怖」という感情への絶対的依存 | 恐怖への依存は、対象を正しく判断する主体性の喪失を招く |
| 期待される結果 | 天国への到達(永遠の幸福) | 安全の確保(敵からの逃亡と生存) | 未知の恐怖に耐えきれず、結果として自ら死(破壊)を選択する |
| 思想の根本的な欠陥 | 打算的であり、真の愛や精神の自立を欠く | 恐怖に打ち勝つための「強さ」を教えていない | 恐怖に支配された者は、自由な決断を下す自己決定権を失う |
ヨコオタロウは、機械生命体パスカルを通じて、現実の「パスカルの賭け」が内包する欺瞞――恐怖に基づく行動原理の危うさ――を、この上なく残酷なメタファーとして直接的に攻撃・解体しているのである。
3. 廃工場の惨劇――「主体性」なき恐怖の帰結とキルケゴールの絶望
パスカルが構築した恐怖の哲学は、物語の終盤において最も凄惨な形で破綻を迎える。
3.1 【事実】子供たちの集団自死
ネットワークが暴走し、論理ウイルスに汚染された同族の機械生命体たちが、狂気に駆られてパスカルの村を焼き討ちにする。平和だった村は瞬く間に地獄と化し、パスカルは辛うじて生き残った子供たちを連れて廃工場へと逃げ込む。そこに、かつてヨルハ部隊を裏切った逃亡兵であるA2(ヨルハ二号A型)が駆けつける。
小説『短イ話(長い話を短く言う)』等の描写を含め、A2はパスカルの村と子供たちを守るため、自らの命を二度も危険に晒し、押し寄せる無数の敵機の大群と死闘を繰り広げた。彼女の奮闘によって敵は退けられ、絶対的な脅威は去ったかに見えた。
しかし、戦いを終えて安全を確保したパスカルとA2が廃工場の奥で目にしたのは、無惨にも自らのコアを破壊し、集団で自死を遂げた子供たちの姿であった。子供たちは、外から迫り来る敵に殺されたのではない。彼らが遺した言葉によれば、彼らは「敵に殺されるのが怖くてたまらなかった」ために、自ら命を絶つという選択をしたのである。
3.2 【考察】恐怖と不安の混同、「死に至る病」
なぜ、生き延びるための安全装置として教えられたはずの「恐怖」が、自死という真逆の結末を招いてしまったのか。この絶望的な事象は、セーレン・キルケゴールの提唱した「不安(Anxiety/Dread)」や「死に至る病(Sickness Unto Death)」という概念を通じて読み解くことができる。
キルケゴールは、「恐怖」と「不安」を明確に区別した。恐怖とは「眼前に存在する特定の対象(猛獣や敵など)」に対する反応である。対して不安とは、「対象のないもの」、すなわち「未知の可能性」や「自由のめまい」に対する根源的な恐れである。
パスカルは子供たちに「恐怖」を教え、危険を回避するアルゴリズムを与えた。しかし、彼が教え忘れた、あるいは教えることができなかった決定的な要素がある。それは、その恐怖とどのように向き合い、どのように乗り越え、自らの意思で人生を切り拓いていくかという「主体性(Initiative)」と「心の強さ」である。
廃工場に隠れた子供たちにとって、外で戦いが行われている間、彼らを苛んでいたのは目の前の敵に対する「恐怖」ではなく、いつ扉が破られ、自分たちが蹂躙されるかもしれないという未来の可能性に対する強烈な「不安」であった。彼らは「死」という概念を哲学的に正しく理解していなかったため、やがて訪れるかもしれない不可避の苦痛に対する怯え(未知への恐怖)が、現在の生存欲求を完全に凌駕してしまったのである。
実存主義において、「自由」とは自ら選択し、その結果に責任を持つことである。しかし、恐怖の感情だけを植え付けられ、主体性を育まれていなかった子供たちは、極限の不安に対処する精神の基盤を持っていなかった。彼らがその圧倒的な不安から逃れるために行えた唯一の自己決定は、「恐怖の対象が現実になる前に、自らの存在を消滅させる」という最も虚無的で自己矛盾に満ちた選択(自死)であった。
「恐怖だけに基づいた哲学は、それに従うすべての人々に悲惨な結末をもたらす運命にある」。パスカルの良かれと思った教育は、結果として子供たちから主体性を奪い、恐怖という名の檻に閉じ込め、最終的に彼らを自死へと追い込む呪いとなってしまったのである。小説版において、自死した子供たちを前にして語るパスカルの声に滲む計り知れない痛みは、自らの教えが彼らを殺したという残酷な真実を、彼自身が瞬時に理解してしまったがゆえの慟哭である。
4. 記憶の重圧と虚無主義(ニヒリズム)への逃避
4.1 【事実】究極の二者択一とA2への懇願
愛する子供たちをすべて失い、自らが築き上げた「家族」と「平和」のユートピアが完全に崩壊した事実を前に、パスカルの精神は限界を迎える。彼は己の犯した罪の重さと、絶え間なく押し寄せる絶望的な悲しみに耐えきれなくなり、傍らに立つA2に対して凄絶な懇願をする。
「私の記憶を消去するか、どうかこの場で私を殺してください」。
このシーンは、プレイヤーに究極の選択を強いる本作屈指のトラウマ的瞬間として知られている。パスカルを破壊するか、あるいは彼の記憶回路を初期化するか。どちらを選んでも、これまでプレイヤーと対話を重ね、共闘してきた「パスカルという個の人格」は永遠に失われることになる。
4.2 【考察】「意味」の喪失と自己の放棄
このパスカルの選択は、実存主義的な生き方の完全な敗北であり、虚無主義(ニヒリズム)への全面的な降伏を意味している。
サルトル的実存主義の観点から言えば、パスカルにとっての世界の「意味」は、村の子供たちであり、彼らと紡いできた「家族」という関係性そのものであった。その唯一絶対の「意味」が、他ならぬ自らが与えた教育(恐怖)によって自己破壊されたとき、パスカルの世界を支えていた基盤は完全に崩壊した。
フリードリヒ・ニーチェは、最高価値がその価値を失い、世界に何の意味も見出せなくなる状態を「ニヒリズム」と呼んだ。パスカルの心境はまさに、この受動的ニヒリズムの極致にある。記憶を保持したまま生き続けることは、自分自身が構築した平和や家族という概念が、最も醜悪で残酷な形で破綻した事実を永遠に反芻する無間地獄を意味する。だからこそ彼は、その苦痛から逃れるために「物理的な自己の完全な抹消(死)」か「精神的な自己の喪失(記憶消去)」のいずれかを求めたのである。
ここで注目すべきは、パスカルが自らの手で命を絶つのではなく、その決断と実行を他者である「A2」に委ねたという点である。これには二つの解釈が可能である。一つは、機械生命体の基本プログラムとして自死(自立的なコア破壊)のコマンドがロックされていた可能性。もう一つは、最後の瞬間に至ってもなお、自らの罪と責任に真正面から向き合い「自ら決断を下す」という実存的な勇気を持てず、他者に引き金を引かせることで責任から逃れようとした、悲痛な自己欺瞞の現れであるという解釈である。
いずれにせよ、彼がニーチェの言葉に懐疑的であったのは皮肉な結果をもたらした。絶対的な支えを失ったとき、自ら新たな価値を創造する「超人」にはなれず、ただ忘却と死という虚無の深淵へと身を投じるしかなかったのである。
5. 忘却の残滓と「機械生命体の頭」――消去不可能な罪の記憶
プレイヤーが「記憶の消去」を選択した場合、パスカルの物語はさらに陰惨でグロテスクな後日談へと繋がる。記憶を失ったパスカルは、かつての村に戻り、自分が誰であったかも忘れたまま、ジャンク屋として商売を始める。そして彼が店に並べて売っている「部品」は、他ならぬ彼がかつて愛し、自死していった子供たちや村の仲間たちの残骸なのである。
この結末は、ゲーム内で入手できる武器「機械生命体の頭」と、そのウェポンストーリー(武器物語)によって、さらなる心理的ホラーの深みへと読者を引きずり込む。
5.1 事実:ウェポンストーリーに刻まれた狂気
ゲーム内のアーカイブおよび武器物語に記録された「機械生命体の頭」のテキストは、一人称「ボク」で語られており、文脈から推測して記憶を消去されたパスカル(あるいは彼と全く同じ境遇にある機械生命体)の視点である可能性が極めて高い。
「壊レタ仲間ノ機械生命体カラ、互換性ノアル部品ヲ拝借スル。修繕ノ為ニ、見ツケタ部品ヲ組ミ込ンダガ、可笑シナ事ニナッタ。ボク以外ノ誰カガ、ボクノ頭ノ中ニ居ル……。排除シヨウト度々接続ヲ試ミルガ、防壁ニヨリ阻マレテシマウ。ソレ以降ボクハ、時々記憶ニナイ行動ヲ取ッテイルヨウダッタ。」
なお、パスカルに対して記憶消去以外の選択(殺害する、あるいは立ち去る)をした場合、この「機械生命体の頭」という武器を入手することができず、ゲームのデータ達成率を100%にすることが不可能となる。これはシステムがプレイヤーに対し、パスカルの残酷な末路を見届けることを強要しているメタ的な構造とも言える。
5.2 【考察】防壁の奥に棲む幽霊と、愛という名の呪い
このウェポンストーリーは、パスカルが選択した「記憶消去」という逃避がいかに不完全であり、そして残酷な結果をもたらしたかを雄弁に物語っている。
パスカルのデータ領域から、「子供たちとの思い出」という表層的なインデックスは確かに消去されたかもしれない。しかし、彼の機体やネットワークの深層、あるいは彼が自らの修繕のために組み込んだ「壊れた仲間(=自死した子供たちや村人)」の部品には、かつての記憶の残滓が色濃くこびりついている。
「ボク以外ノ誰カガ、ボクノ頭ノ中ニ居ル」という現象は、単なるプログラムのエラーではない。これは、彼の中から決して消し去ることのできない巨大な罪悪感と喪失感の暗喩である。排除しようとしても「防壁(ファイアウォール)」によって阻まれてしまうその「誰か」とは、彼がかつて愛し、そして自らの教えによって死に追いやった子供たちの亡霊に他ならない。
さらに恐ろしいのは、「記憶がないにもかかわらず記憶にない行動を取る」という描写である。これは、彼の魂の根底に刻み込まれた「家族への愛」や「保護者としての責任」という概念が、表層的なプログラムの書き換えやフォーマットすらも凌駕し、無意識の底から彼の身体を突き動かしていることを示している。
彼自身の記憶を消去することは、一時的な免罪符にはなっても、魂の真の救済には決してならない。過去の罪を忘却したパスカルは、自分がなぜこれほどまでに虚無感に苛まれているのか、なぜ頭の中に声が響くのかも理解できないまま、失われた者たちの部品を売り、自らの身体に組み込みながら、果てのない荒野を永遠に彷徨い続ける。罪の意識すら持てないまま罰を受け続けること――これこそが、現実の地獄を凌駕する「記憶消去」という選択の真の恐ろしさなのである。
6. ノベルズと派生作品における補完――微かな光と命の肯定
パスカルの物語は、本作において最も救いのない悲劇として多くのプレイヤーの心に深い傷を残した。しかし、公式の派生メディアやノベルズを紐解くことで、この徹底した虚無主義の底に、極めて微かな、しかし確かな「光」を見出すことができる。
6.1 【事実】異なる結末と繰り返される利他性
小説版『短イ話(小サナ花、記憶ノ棘、プロメテウスの火などを含む短編集)』や、その他の記録によれば、記憶を消去されたパスカルであっても、時間の経過とともに再び他の機械生命体を気にかけ、困っている者を助け、世話を焼こうとする性質に引き寄せられていくことが示唆されているエピローグが存在する。彼は自らの過去の過ち(恐怖を教え、破滅を招いたこと)を知覚できないままでありながらも、あるいはその欠落から無意識のうちに何かを学び取るかのように、再び「他者との繋がり」を求めようとするのである。
さらに、ゲーム本編の物語を再構築したアニメ版『NieR:Automata Ver1.1a』においては、パスカルの最期は大きく異なる描写となっている。アニメ版におけるパスカルは、論理ウイルスに自らも感染し、自我が崩壊していく絶望的な状況下にあっても、恐怖に怯える子供の機械生命体を最期の瞬間まで優しく抱きしめ、慰めの言葉をかけながら共に機能停止を迎えるという結末を辿った。
6.2 【考察】永劫回帰と「人間性」の証明
これらの事象を統合して考察すると、そこにはフリードリヒ・ニーチェの「永劫回帰(Eternal Recurrence)」に通じる哲学的な美しさと、強烈な「命の肯定」を見出すことができる。
永劫回帰とは、この世界が全く同じ事象の永遠の繰り返しであることを受け入れ、その無意味さの狂気に耐えながらも、なお「その人生を何度でも生きる」と肯定する超人の思想である。ゲーム本編のパスカルはニヒリズムに屈したが、全体の世界観を通して見れば、彼の存在そのものが一つの永劫回帰を体現している。
何度記憶を失っても、何度絶望のどん底に突き落とされても、パスカルは「他者を愛し、守ろうとする」という自らの実存的本質へと回帰していく。恐怖によってすべてを失い、空っぽのジャンク屋に成り下がった彼が、それでもなお他者のために手を差し伸べようとするのだとすれば、それは彼の中に創造主のプログラムを超えた「人間性」という概念が真に芽生えていた証左に他ならない。
アニメ版での自己犠牲的な最期は、彼が最後に「恐怖」ではなく「愛」を選択したことを示している。恐怖から逃げるために自らを終わらせたゲーム版の子供たちとは対照的に、アニメ版のパスカルは死の恐怖に直面しながらも、他者を慰めるという主体的な行動を選び取った。これは、彼が最後にキルケゴールの言う絶望を乗り越え、実存的な意味での「真の自己」に到達した瞬間であったと評価できる。
総括――機械が夢見た「人間」という美しき虚妄
本レポートで解き明かした通り、パスカルという存在は、下位の意識形態である機械が「意味」や「家族」といった高度な人間的抽象概念を模倣しようとした際に生じる、必然的な摩擦と悲劇の象徴である。
彼はブレーズ・パスカルの「賭け」に倣い、未知の世界に対する防壁として「恐怖」を子供たちに与えた。しかし、生きるための哲学としての心の強さと主体性を伴わない恐怖は、子供たちに耐え難い不安をもたらし、自死という最悪の結末へと導いた。自己の存在理由であった家族を失ったパスカルは、精神的な重圧に耐えかね、自己の消滅か記憶の忘却という虚無主義の底へと沈んでいく。そして、彼が忘れ去ろうとした罪と愛の記憶は、自らの頭蓋(システム)の中に幽霊として棲み着き、記憶のない彼を永遠に苛み続けるのである。
パスカルの物語は、理性が感情を完全に制御できるという幻想、そして恐怖によって平和を維持できるという打算に対する、ヨコオタロウからの痛烈なアンチテーゼである。
しかし同時に、この物語は、機械たちが冷たい鉄の体の中に抱いた「他者を愛おしいと思う心」の崇高さを、これ以上ないほど鮮烈に描き出している。彼が夢見た「理性のユートピアと家族」は、戦火に焼かれた廃墟に咲いた徒花(あだばな)のように儚く散った。だが、自らの教えが子供たちを殺したという取り返しのつかない罪悪感、記憶を失ってなお頭の中で響き続ける亡霊の声、そして何度絶望しても他者を求めてしまうその不器用な利他性。その凄絶な悲哀と痛みこそが、パスカルがただの命令に従う機械のスクラップではなく、確かな「心」と「命」を持っていたことの、最も純粋で美しい証明なのである。
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